「再現性」と「余白」を考える

僕はよく言葉と写真と映像の違いについて考えることがあります。 今日はそれを「再現性」という切り口で考えてみました。 誰の何を再現するのかについてまず話をすると、「自分(作り手)のイメージ」「誰の素材を使って」再現するのかという事です。ちょっとよくわからないですよね。笑


写真は言葉と映像の間にあると思っているので、ひとまず言葉と映像の関係について話をします。良し悪しとかではなく、あくまで相関関係として。


言葉 →相手のイメージを利用して再現性を高める 「自分(作り手)のイメージの伝播度」(弱い)

「受け取り手の要素」(強い)


映像 →イメージを自ら作り込むことで再現性を高める

「自分(作り手)のイメージの伝播度」(強い)

「受け取り手の要素」(弱い) 例えば、言葉で、 「今日電車で、黒髪の綺麗な色白の美しい女性を見た。」 という事象を再現する場合、作り手の頭にある伝えたいことを再現しようとすると、どんどん形容詞が増えていってしまう不自由がある代わりに、読み手それぞれの持っている「美しい女性」像を借りることによって、個人に最適化されたイメージを、受け取りての中に再現することができます。 逆に映像で同じことを伝えようとした場合、数カット(数秒)でそれを表現できるように思えますが、作り手側の用意した「美しい女性」が受け手がどう感じるかは人ぞれぞれです。


両者の違いは何かというと、「余白」の使い方だと思っていて、この言葉と映像の関係を両端に置いた時に、写真はどのような位置にあるのかというと、僕は随分と言葉よりにある気がしています。


仮にシャッタースピードが1/125で撮影されたものが125枚展示されている写真展があったとして、そこに含まれる情報は1秒です。

でも、きっと受け手にとっては、一年分のイメージを持ってもらうことも可能な表現が写真だと思います。 僕は写真のそういう「余白」が好きです。 ※だけど同時に、この三者が一つの線状にあるのではなく、三角関係として説明できる写真のあり方もずっと考えています。

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